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2019/09/14

みすゞと雅輔

1996年くらいやったと思うんですが、東京近郊から山口県の下関市に旦那の転勤で引っ越しました。さっそく青海島という観光地に行こうと出かけた時、近くの仙崎という港町で、「みすゞまつり」と書かれたのぼりがあちこちに掲げてあったんです。

その時は何も知らなくて「みすゞって何やろ?魚か何かの食べ物かな?」ぐらいにしか思いませんでした。
実は人の名前で西條八十に「若き童謡詩人の巨星」とまで称賛されながら、26歳の若さで亡くなった金子みすゞの事だとその後知りました。

ほとんど世間に記憶されることも無かったみすゞのことを、1993年に矢崎節夫氏により「童謡詩人、金子みすゞの生涯」が刊行されてから注目が集まり、ちょうどテレビでも取り上げられるようになった時期だったんですね。

仙崎で生まれたみすゞはその後母親の再婚先の下関に移ってから、童謡雑誌への投稿を始めて一気にその才能が花開いたということで、下関も盛り上がっていて、幻の童謡詩人「金子いすゞの世界」展が下関大丸で最初に催されて、すっかりみすゞファンになってた私はすぐ見に行ったのを思い出します(笑) その後大阪と東京でも開催されています。テレビでも特集が続き、ドラマ化されたり映画化もされたので、ご存じの方も多いと思います。

ただその扱いのほとんどは、才能溢れる若い才女と最大の理解者であった弟との恋愛に似た感情と、それを危ぶんだ両親が、みすゞに書店の従業員と無理やりさせた結婚により、みすゞは詩を書くことを禁じられてしまった。家庭を顧みない酒飲みで放蕩人の夫に性病をうつされ体調を崩し、離婚成立の為には娘を手放す事が必須条件とされ、その期限の日に絶望して自死してしまった……という悲劇的な扱いでした。

ところがそういった伝説に疑問を持たれたのが、作家の松本侑子さんで、金子みすゞの生涯を丹念な取材と当時の弟の日記や手紙を精読することにより、聖女伝説を覆す「みすゞと雅輔」という本を書かれました!これが二年前の事。
当時新聞に書評が載ったので、すぐ買うつもりやったのに、なぜか買わなかったんだろう。。。先日久しぶりに図書館をぶらぶらしてて、見つけましたよ((´・ω・`;))

興奮しながら読んだのですが、なかなか面白かったです!みすゞファンだと評価が分かれるかも知れないけど、著者の松本さんの「切れば血の出るような生身の人間として描いてみたい。そう思って取材を始めました」という言葉がしっくりくる感じです。

物語は主にみすゞの実の弟の雅輔の日記を元に書かれています。雅輔は赤んぼうの頃裕福な叔父夫婦の養子となって、みすゞとは文学や芸術の話ができる心許せる唯一の同志として恋心も抱きながら成長していきます。一方いすゞは実の弟と知っているし、恋愛対象とは思ってなかったようです。

雅輔は跡取り息子として甘やかされて育ちます。欲しいものは何でも手に入る環境なのに、早くから童謡童話雑誌に投稿しては入賞して認められていく、従姉のみすゞのことを、尊敬と嫉妬の混じった複雑な愛情で見ています。
店の跡取りとしての雅輔の危うさに危機感を覚えた両親は、取りあえず、みすゞを結婚させれば落ち着くだろうと、経営している本屋で見込みのある従業員の宮田とみすゞの縁談を勧めます。これも取材により、無理に進めたというより、男前の宮田を恥じらいの表情で見つめるみすゞに気付いて、いずれは店をのれん分けして任せるという条件で両親がお膳立てしたというのが本当らしいです。

それが許せなかったのが雅輔で、自分の崇める芸術の女神であるみすゞを、使用人ごときに奪われる口惜しさで、この縁談を潰そうとしたり、結婚後も人望厚く必死ではたらく宮田を見ながら劣等感でいっぱいの雅輔は、自分は本屋なんかで生きていく人間ではないと家出したりするのですが、放蕩者は雅輔の方でしょうしかも息子に甘い父親は店員の前で宮田に「雅輔が家出したのは、お前が虐めたせいだ、!お前には店を出ていってもらう」とまで言ってしまうのです。

元々みすゞが熱を上げて、のれん分けを条件に結婚した宮田には衝撃的な展開で、結局店をやめてしまうのでした。この頃から宮田が飲み歩いたり浮気したりが始まったわけで、最低なのは雅輔と、とことん甘やかしてしまう父親の方ですやんΣ( ̄。 ̄ノ)ノ

結局この後みすゞの妊娠が分り、離婚することもなく夫婦で家を出ていきます。でも不幸な事に宮田の浮気から淋病をうつされたみすゞは体調を崩し、娘の世話をするのも大変になり結局は離婚へと話が進んでいきます。子供の親権を巡ってもめた後、離婚した夫から娘を連れ戻すと言われ絶望したみすゞ。娘の引き渡し期限の日に自死してしまいます。

血も涙もないと思われている宮田ですが、当時は離婚後は親権が父親に移るのは当たり前の事だったそうです。娘に寂しい思いはさせないでとは言ったけど、結婚後詩を書くなとも言ってなかったらしいです。むしろみすゞと弟の雅輔が親しく交流することへの嫉妬や寂しさも感じていて、みすゞ亡き後再婚した相手に、元妻が才能あふれる詩人だったと自慢していたそうです。

それと、自殺する前日にみすゞは写真館で、ポートレートを撮っているんですが、正装して美しく撮れていて、定説ではいすゞが残していく不憫な娘に自分を忘れないでと残したと言われているけど、写真が立派過ぎるので、これは死後自分の作品が出版される時用だったのではないか?と著者の松本さんは書かれてますほんとうならこれは計画的で凄い執念を感じます。実際にみすゞは、それぞれ3冊の手帳に自分の詩を清書してまとめて、当時東京で成功していた弟の雅輔と、交流があった西條八十に送ってます。出版してくれとは書いて無いものの、その思いは強かったのでしょう(;_;)

結婚後は、詩の投稿の数も減っていました。著者は本来のみすゞなら、たとえ夫から詩作を禁じられても、夫が居ない時間書いたはずで、理由は「表現者として書けなくなったのだ」と推測してはります。
童謡雑誌に投稿していた時、みすゞにはライバルが二人いて、しのぎを削っていたそうです。あと二人は男性でそのライバルたちは旺盛に作品を発表しそれぞれ詩集を出版しているのに、すゞは500を超える作品がありながら、本が出版されることは叶いませんでした。

「童話」紙に投稿したみすゞを見出した西條八十は、いよいよ詩人として成長する時に渡仏してしまい「童話」紙から離れてしまいました。彼が帰国して新しい雑誌を主宰した頃には、みすゞは子育てに忙しく、そのうちに童謡自体が廃れてしまいます。本質的に不器用なところがあり時流の流れの変化についていけなかった彼女は「大人もの」への転換に苦しんでいいました。しかしまた八十が新しい雑誌を出す直前にいすゞは自殺してしまうという不運もありました。。。

不思議なのは、みすゞと雅輔の関係です。芸術を愛する同志でありながら最大のライバルだったのかな?みすゞが詩人として認められてると、雅輔が絶不調で、苦しみぬいて捨て身の覚悟で東京に出ていくと、思わぬ道が開け、文芸春秋社の社員となり脚本家として成功していきます。すると今度はみすゞの結婚が破たんし生活に困窮して、表現者としても停滞してしまう。弟の成功がかえって自分の現実の惨めさを映し出す鏡になってしまうという皮肉。

どちらかと言えば頑固で自己主張できない控え目なみすゞだったようですが、表現者として認められたいという心の叫びがところどころに感じられて苦しくなるくらいでした。確かに今までの聖女伝説とは全然切り口が違うけど、これは実際のみすゞ像に近くて実は本人もホッとしているような気がするのですが。

哀しい最後だったので、不遇な時代をたくましく乗り越えた彼女の詩を見たかったな。しかし今や、みすゞは誰もが知る有名な詩人となっているのも皮肉な話ですね。

みすゞや雅輔が生きた時代の下関は大陸への窓口としで、活気のある都会だったようですが、私が住んでた当時は関門海峡に関門大橋が出来て賑わいはとっくに福岡へ移ってしまっていて、寂れた印象の街でした。でも小説の中に知ってる地名が出てきて懐かしい~。美しい海に三方を囲まれ、みすゞが暮らした街をまた訪ねたくなりました。

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